寄稿 集団的自衛権と自衛隊 ―私の九条観とその推移―


 
福留 久大さん:九州大学名誉教授 政治経済学専攻 1941年上海生まれ
 
 幼児の頃、戦時下で緊張と恐怖の日々を体験した。だから小学校にあがって、国際連合が「我らの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う」(憲章前文)ことを目標に設立され、「武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない」(憲章第1条)と宣言していることを知ったとき、大きな安堵を覚えひどく嬉しかった。日本国憲法が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」(前文)「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(第9条)と定めていることを教わったとき、日本の未来は理想に輝いて見えた。
 
 大人になって、現実無視の理想論では飯は喰えないという意見を沢山聞いた。しかし、憲法9条と自衛隊の関係は、現実に立脚した理想になり得ると考えた。自衛権は各人と各国に備わる天然自然の自然権だからそれを守る自衛隊は、「国の交戦権」を行使する「陸海空軍その他の戦力」とは一線を画して、軍隊でない組織として平和的機能に徹するならば、ギリギリのところで憲法9条と両立し得る、国連軍縮委員会が目指す未来の実力組織の先駆的モデルにも成り得る、そう考えた。
 
 2006年9月、第一次安倍政権が成立、安倍晋三氏が「集団的自衛権の行使」を強弁し始めてから憲法9条と自衛隊の両立可能性は怪しくなってきた。「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」ができる権利(1972年10月14日政府見解)を集団的自衛権と名付けているが、これは天然自然の自衛権ではない。1945年3月、米州(北米・中南米)会議において、米州のいずれか一国に対する攻撃を加盟諸国に対する侵略行為と見なして対抗措置をとることが決議された。翌4月、サンフランシスコで国連創設会議が開催された時、「安全保障理事会の許可なしにはいかなる強制行動もとられてはならない」という憲章草案と米州会議決議は矛盾することになった。脱退すると息巻くラテンアメリカ諸国をつなぎとめるために案出されたのが国連憲章51条の集団的自衛権という新概念である。自衛権を名乗ってはいても、その本質は「他国防衛を支援する権利」(国際司法裁判所見解)つまり他国の戦争を支援する権利=他衛権であり、その行使は、憲法9条が禁ずる「交戦権」の行使にほかならない。
 
 2014年7月1日、第二次安倍政権は、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。翌日の地元・西日本新聞が強調するように「憲法9条の下、戦後日本が堅持してきた専守防衛=平和主義を骨抜きにし、『戦争のできる国』へと一歩を踏み出す」ことになり、自衛隊も軍隊化する。「戦場に九州の隊員、現実味」となり、博多港に戦艦が出入りするのも「決して絵空事ではない」ことになる。(2014・9・25)